綴り

ぽろっと、


好きな人に会いに行くというテーマをガンガンやっています。

ふつうに生きていてもまあまあそんな感じにはなるんですが、
さらにあえて尚もです。

ポイントは〝相手の都合にかまわない〟ところです。

わたしが会いたいから一方的に会いに行く。
迷惑なら向こうが断ってくれば良い。
それくらい勝手にやらせてもらってます。

すると皆んなけっこうすんなり受け入れてくれるから、
ああなんだ、もっとはやく会いにくれば良かった
なんて思うのだけど、
なにより無事で現れてくれたことに
いちいち感動するのです。


10〜20代の頃は山にいることが多くて、
色んな情報がいつでも一足遅れて届きました。

そのひとつにあった友人の死。

中学の同級生で
体が大きくて
目がやさしく垂れていて
野球のことしか知らない
いいやつでした。

わたしは中学卒業後に福岡を出てほとんどの人と切れてしまったけど、
彼とはかろうじて通じていて、
思えば地元でさいごに酒を呑んだ友人です。

福岡に戻ることがなくなってだんだん疎遠になり、
知った時にはもう色々が終わって、
過去の出来事になりはじめている頃でした。

ぐっと悲しむタイミングが
なんとなく掴めないままの8年。
小出しでやってくる寂しさにまだ慣れません。

この時代、画像やなんや、あるとこにはあるもんだから、
黄色い字のユニフォーム着たあいつがネット上にまだいます。

で、何故ここにいないのか悔しくて悔しくて、
まだ生きていたころ、
遠くて会えないような気がしてたけど、
そうじゃなかったと気づきました。

またそのうちにと思って、ぼんやりしていただけです。
呑気にぼんやりしていたら間に合わなくなりました。

たった3時間。
ぜんぜん遠くなかった。
今なら3日かかっても会いに行くのに。

きっとすごく好きだった、といまさら思うわけです。
ただ会って話がしたいと今日も思っています。

そういう相手って、
誰しも一人か二人いるのかもしれません。

会いたい人に会いに行けることはとても幸運なことです。
遠慮してる場合じゃないです。


今年はきっと福岡へ行こう。

 

将来の夢は、

あるお客さまの話。

〝もののけ姫〟を初めてみたときの衝撃が今でも忘れられないそうです。

何をどう感じたのか、その感覚をどう解釈して、
どのような言葉であらわせるのか、
当時の未熟な自分には分からずいまだによく分からないけれど、
自分の原点はそこにあるんだと、

そう迷いなく話していました。

表現の手法に感動したという事には違いないと思いますが、
いや、どうなんでしょう。
本人にも分からないので、私にも分かりません。

それでもその漠然とした衝撃をたどって動いているうちに、
『表現』と『建築』の融合点を見つけたそうです。

現在は店舗や古民家など様々な施設を設計しています。


原点を自覚して信じて進んで、
何か見つけてどうにかなっているってすごい。
原点を着地点として、
しっかりと掴めてるイメージです。

なぜ、ここで、こうしているのか。

はっきりと人に伝えられるのは素敵だしカッコいいし、
とても頼もしいです。
「自分」と「自分が信じているもの」との間には
たぶん磁石のような作用があるので、
両方をきちんと持っていれば、
ちょっとフラフラしてもまた戻ってこられると思うからです。


なぜここでこうしているのか。
私にも答えられる日がくるだろうか。

ちいさな子供に将来の夢を聞くと毎回変わっている、
というのはよくあるけど、

30歳過ぎてもそのノリが続いている私は大丈夫ですか?
もしかして実は多くの人がそうですか?

何かを掴んだような、
どこかに着いたような感覚って、
どんなもんなんでしょう。
さらにそれを守っていくってすごく高度な気がしますが、
もしかして、実は多くの人が経験していますか?

それとももしかして、
「そういう事にしている」場合も多いんでしょうか。
それもそれで大変そうです。


はじめ言おうとしていた事から随分それました。

話をしているとき、
わたしはすごくドキドキしてしまって、
彼のその、ぴょんぴょん跳ねるような言葉や表情に。

恋ではないです。
もっといいものだと思います。

何歳になっても未来に期待して、
そのために今こうして頑張っていると、
過去の自分の感覚は冴えていたと自分で言う。
言っちゃう。
言わなくても良いけど言っても良い。

聞いた人は案外よろこんだりするし、
待っている人も多いかもしれない。

あなたのそれが聞きたかった
じゃあわたしのも見せちゃう

どうですか、
いいじゃないですか。

わたしに将来の夢が見つかった時には、
ぴょんぴょん跳ねながら誰かに伝えてみたい。

と思いつつ、

お婆ちゃんになっても
「将来の夢まだ考え中です」
って平気で答えてる気もします。


チュックな夜


久しぶりにワイン。

酒と食事と空間と、それを共有する相手。
全てがまあるくひとつになった夜でした。

気持ちよくて色々が止まらない。
止める気もないんですが

伊那市駅近くのイタリアン、
お料理が素晴らしいだけでなく人も優しくて素敵でした。
というかイケメンでした。

しょうもない事にはしゃぐ私たちに、常時和やかな微笑みを向けてくれる。
眼差しイケメンと呼ばせていただこう。
おねいさんも可愛くて、
だからつい飲んでまったの。

すべてがほんとうに美味しかった。
ありがとうきっとまた行きます。


去年頃からなつかしい人と会う機会が多いけど、

そういう人と喋っていると、
怪我の後遺症がふいに露呈するみたいな事ときどきあってビビります。
時効だと思っていた案件の捜査が、
実はまだ続いていたみたいな。
此の期に及んでまだ見えてないフリをしたり。

わたしは大人になったけど、
何か変わったかなあ。
歳をとるほどどんどん楽になっていきます。
たぶん、時間をかけて昇華できる傷があると知ったから。
あと周りの友人も、
歳をとるほどどんどん優しくなる気がします。
みんな色んなことを知ってるんだと思います。
きっと、わたしがまだ知らないことも。


さてと、たくさん遊んで休ませてもらいました。
明日からまたハチカクをよろしくお願いします。



「Osteria dei Cioch オステリア デイ チュック」


最高のトイレ

つづき。

伊那に行くと立ち寄りたいところがあります。

「草の音 くさのね」
きれいな名前のお店です。

骨董品とお花、時に藍染、時に音楽。
それから、いろいろ。

わたしは、何だったか忘れてしまったけどドライフラワーにと
平べったい栗みたいなやつと銅のフォークを買いました。

ひいろは、裏に誰かの名前が書いてある木琴と、
ドライとうもろこしと、古いボタンと銅のスプーンを買いました。


お店どうだった?と聞いたら、

「今までで最高のトイレだった」と。

わかる。DNA。


「真っ白で広いところの隅っこがトイレで、
完全にきれいで、大きい空っぽの絵の枠が床にあった。
それはどっかの世界につながってると思った。
手を洗う水道のよこの鏡が魔法の鏡だった。
さむかった。
(5歳 発言ママ)

これは100%合っています。

最後のさむかったは、感覚的にネガティブなものではない気がします。
だからこそのどっかに繋がった額縁であり、魔法の鏡なんだろうと思うのです。

来週また、長野へゆきます。
松本と安曇野と伊那です。
どう考えても行きすぎだけど、
止められません。

見たいものがあって、
会いたい人がいて、
そのうえお酒がたらふく飲めるとくれば、
迷うことはありません。

それでは、また。



詰まってる?


日々重力にさらされています。
自分にも周りにも体にもいろんな事が起こります。

起こるといってもあえて起こっているんではなくて、
時間が流れるってそういうことです。

すべてがあたりまえに変わっていくということです。

それによって見たこともない何かが生まれたり、
反対に、動いていたものが動かなくなったり、
いた人がいなくなったりもします。


うれしくない知らせばかり届くなあと思っても、

すべては時間の上で起こっている出来事で、
わたし個人がうれしいとかうれしくないとか、
そんなことは問題じゃないわけです。

時間は流れつづけなければならないので、
わたしの感情などにいちいち構ってはいられないのです。

その容赦の無さは皆に平等だから不満はないけども。
ちょっと手加減してくれと思う時はある。

しかもそこで負ったダメージを回復させる方法も時間しかなかったりして、
なんかくやしいですね。
時間のやつめ。とても敵わない。
あらがうだけ時間の無駄かとも思う。


とりあえず仕入れに行ってきます。
 




いらっしゃいませ

本日ホームページopenしました。

まだ全然出来ていませんが、
このまま永遠に出来ない気がするしもう見切り発車感まるだしであけます。


よちよち歩きの小さなこの店は、
だいたい何時もフラフラしています。
右に行きたいのか左に行きたいのか
自分でもよく分かっていません。

それでもスコップ片手にずんずん掘り進むように、
あれこれ巻き込んだり巻き込まれたりしているうち、
何かどうにか形成されていくだろうと思います。
そしてまた削ったり削られたりしているうち、
変形もしていくだろうと思います。

商売の中に暮らしがあって、
暮らしの中に商売がある。

そんなことが通用するのかしないのかまだよく分かりませんが、
今のところはそうやって暮らしています。

どうぞ宜しくお願いします。